Edit your comment 「神と対話する海雄さん、祭りと対峙するカメラマン」 (HPから・抄) 神社創建は1591年。毎年11月第2日曜に行われる例大祭は、土地の海の幸・山の幸など自然の恵みとそれらを育む源となる水への感謝祭でもあり、林業・農業・漁業などに携る地域の人々によって400年以上継承されてきた伝統的なお祭りです。海部の自然と、農作物を育て収穫する農家さん、魚を獲る漁師さん、調理してくれる女性陣、そして神輿を担ぐ男性陣。阿波海部の地で続く轟神社秋例大祭は、神輿滝入りや食を通して海と山の繋がり、人の繋がり、水の大切さを伝える伝統行事です。 とあります。 きのうの海雄さんの秋祭りドキュメント興味深く拝読できたことでHPの写真の理解が増したと思います。しかしながら、真実と乖離した視点と解釈の多様さが現代社会あるのでシングルマンさんも感じた修正のことは私ももどかしく思います。 >僕らの滝行に感動してくれたらしく自身も服を脱ぎ捨て撮影。 心を開いて被写体の真実に迫る姿勢だと思います。 >転びそうになるところを思わず抱きしめたり…。裸同士で。 寝食を共にして真実が通い合うもの同士になりえたからこそ言える、ユーモアあふれる表現です。 それが、 >神輿渡御本番では担ぎ手と同じく白装束を着てもらい >「あいつが撮るなら玉くらい撮られても構わない!」心境にさせてくれました。 ここに帰結しています。 自分も「多様な視点と解釈を持つ人」ですが、芸術や文化に対してモザイクの検閲を受ける国の考え方には同意できないです。撮影した写真家は神事の事実に迫りました。着衣であっても裸身であっても、あるがままの事実を修正することでフィクションになってしまうことも事実です。絵画のスーパーリアリズムは生殖器の細部まで描き起こすことは可能です。写真も絵画もトリミングです。見るべきことはリアルな局部の描写に固執するのではなく、作品の前後左右上下の描かれていない部分への視点と解釈です。例えばモナリザは遠近法、人物奥の存在、画面外周辺の空気感も知ることが必要です。しかし、微笑みばかり誇張された解釈が優先されるのは私には滑稽でもあります。だから、神輿を担ぎ滝に進む人たちの場面のみならず、その周囲の気配も感じ取る感性が求められるのだと私は理解しています。 海雄さん紹介文の中には、現実的な課題を認識しながら解決策を模索し、「先人たちの教えや歴史とともに大好きなこの場所を未来につなげられるよう、自分たちの代でできることをやっていきたいです。」と結びます。神事と地域に関わる矜持を感じます。 自然界に存する神。「今日の画像:大自然と対峙する裸体」は神との対話でもあります。 ながながと理屈っぽく書きました。すみません。 SECRET SendDelete